ただ得点力不足はずっと以前から言われていたことで、それはJリーグが始まるはるか昔から変わらぬことである。
釜本という稀有な存在があったからかチーム力で点をとるというよりも傑出した個人に得点を求める傾向も強く、少し目立つ存在が出てくるとたちまちスターに祭上げられる、武田は良くも悪くもその代表的な選手である。
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80年代の日本サッカーはまさしくどん底で、サッカーはドマイナーな競技の一つでしかなかった。
その大きな要因はワールドカップやオリンピックといった国際舞台に全く立てない日本代表にあると言っても過言ではなかろう。
偉大なストライカー釜本邦重は引退したものの、同時期に高校サッカー界に燦然と輝く星があった。
それがサッカー王国静岡にあって全国制覇も成し遂げた、名門清水東の武田修宏だった。
遠く離れた田舎町でサッカーを始めたばかりの私でさえ武田の名を知っていたということは、つまり当時のメディア(ほぼ専門誌、冬の選手権中継ではあるが)がどれほど武田を大きく取り上げていたかわかるだろう。
最上級生には清水の三羽ガラスがいたが、人気と知名度ではそれを凌駕するものが武田にはあったと言えよう。将来の日本代表エースストライカー間違いなし、とこの時点で言う気の早い連中も多くいた。
ただそんな武田も選手権出場時には決勝で帝京に苦杯をなめる。
優勝した前年と違い本命と目されていただけに、この敗戦は武田自身の評価を落とすことにもなった。
また静岡の高校サッカーは混戦の様相を呈しこの後清水東は地区予選で敗れ続けることになる。翌年は名門復活と言われた藤枝東、翌々年は同じ清水勢の清水商業が出場した。
ちなみに藤枝東には同い年として中山雅史が、清水商業には一学年下に武田を凌いで得点王となる青島文明がいた。江尻、真田といったJリーグでも活躍するメンバーが多数名を連ね、名実ともに静岡が日本サッカーの王国であった時代だ。
そんなわけで武田のキャリアの中で決して輝かしい栄光ばかりではなかった高校時代(それでも選手権準優勝があるが)だが、私が大きく記憶に残るのが国体での武田のダブルハットトリック+@だった。
相手は三重代表、静岡選抜のFWとして出場した武田はダブルハットトリックに加え1点か2点かをもぎ取り、圧勝をおさめた。
1回戦などではない、準決勝あたりでのことだ。
この記事は当時のサッカー専門誌に全ゴールがワンカットずつの写真で掲載され(やはり武田は凄い!)と私の記憶に大きく刻み込まれることとなった。
※記憶が薄れている部分があるため、間違いがございましたら訂正したいのでご指摘ください。


